もののけ姫 ジブリ

【もののけ姫】サンはなぜ捨てられた?母親=エボシ説否定の根拠3つ

2023年7月14日

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  • サンは、なぜ親から捨てられた?
  • サンは、なぜ山犬に育てられた?
  • サンの母親はエボシって本当?

この記事では、このような疑問について考えていきます。

こんな人におすすめ

  • なぜサンは親から捨てられたのか/山犬に育てられ森で生きるのか、知りたい人
  • 『もののけ姫』を、もう少し深く突き詰めたい人
  • 母親=エボシ説に疑問を持つ人

『もののけ姫』好きのわたしが、登場人物の

  • セリフ
  • 表情
  • 行動

を元に、ちょっと引かれそうなところまで深掘りし考察しました。

考察については、あくまで一個人の考えなので、必ずしも真実というわけではありません。

また筆者は、ちょっとコア寄りのただのジブリファン専門家や評論家ではありません。

楽しむことを目的に、お読みくださればと思います。

この記事を書いた人

シンプルにジブリ好き。中でも『もののけ姫』は特に好きな作品で、セリフの再現もたぶん余裕です。サンは最推し。

考察するのも好きで、他の方々の考察も、それなりにではありますが、拝見してきました。その上で「わたしはこう思う」を、まとめています。

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もののけ姫のサンは、なぜ捨てられたのか?

引用:スタジオジブリ

サンは、モロから逃げる時の身代わりにされたために、赤ん坊のころに捨てられています。

サンは「捨てられた赤子」→モロが作中で明言

サンが捨てられた赤子であることは、作中でも明言されている事実です。モロのセリフから分かります。

あの名セリフ、「黙れ小僧!」の場面ですね。▼

「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか!?森を侵した人間が、我が牙から逃れるため、投げて寄越した赤子がサンだ!」

岩穴の上でアシタカと話すモロから語られる数秒足らずのセリフから、サンが身代わりとして投げ捨てられた赤ん坊であったことが分かるんです。

過去の回想シーンが流れるわけではないので、知らないという人も多いでしょう。

モロのセリフのあと、『もののけ姫』の物語はメインストーリーに話が戻ってしまうので、サンを捨てた人物について詳しいことは何も説明されません。

ですが、『もののけ姫』好き、ことサン推しにとっては、気になるところですよね。

ここからは、サンは、なぜ捨てられたのかを、深掘りして考察してみます。

以下、個人の考察を含みます。

あくまでいちファンとしての考察なので、「これが真実か!」ではなく「ははあ、そんな考えもあるか」ぐらいの気楽な感じで、肩の力抜いて読んでくださいね。

※なお、考えすぎてもキリがないので、「赤子のサンを捨てた人物」=「親」と仮定して、考察していきます。

【考察】サンはなぜ捨てられた?

サンは、親がモロから逃げる時の身代わりとして捨てられたことが、作中ではっきりと言及されていました。

そのことを、もっと詳しく深掘りしていきます。

先に結論をお話しすると、サンが捨てられた理由は、

  • 伐採や神殺しを目的としていた人間によって、
  • 最初から身代わりとして森に連れられた赤子だったから

ではないかと考えています。こわっ……

「物」として、粗雑に投げ渡された?

捨てられたときの可能性

  • サンは親から愛されていたが、泣く泣く手放された?
  • サンは親から何とも思われず、物のように投げ渡された?

一言で「捨てられた」といってもいろんな状況が考えられますが、サンの場合、残念ながら後者の、親から何とも思われず、物のように投げ渡されたと考えられるでしょう。

根拠は、2つあって、

  • モロのセリフ(先ほど紹介した「黙れ小僧!」のセリフ)
  • モロの性格

です。

まずは、セリフをもう一度みてください。▼

「黙れ小僧!お前にあの娘の不幸が癒せるのか!?森を侵した人間が、我が牙から逃れるため、投げて寄越した赤子がサンだ!」

声優の美輪さんの演技が光りまくる、モロの名場面のひとつです。

注目したいのは、「投げて寄越した」というところ。

仮に、サンの親が泣く泣く娘を手放したという状況だったなら、仮にどんなにモロが恐ろしかったとしても赤子を投げるなんてありえません。要するにぶん投げたってことですからね。

とてもじゃないですが、赤子を大切なものとして扱ったとは思えません。

もうひとつの根拠として、モロの性格に注目します。

こっちはあくまで個人的な解釈になりますが、おそらくモロは森を侵した人間に対し「助けてほしければ、代わりに赤子を寄越せ」なんて言わなそうじゃないですか? 真っ先に、森を侵した親の方を襲うように思います。

となると、親側が勝手に「だから見逃せ」といって投げ渡したのではと推察してしまうのです。

この2点から、赤ん坊のサンは「泣く泣く手放された」のではなく、「物のように投げ渡された」「粗雑に放り投げられた」状況が想像されます。

少なくともモロの目には、「身勝手な人間が、赤子の命すら道具にして森を侵そうとした」と映ったのでしょう……。

最初から身代わりとして、シシ神の森に連れられていた?

親が森に赤子を連れて行った可能性

  • 行楽?
  • 引っ越しか何かで、どうしても連れて行かなければいけなかった?
  • 最初から身代わりに使うつもりで、赤子を連れて行った?

わたしはサンの親は、最初から身代わりとして使うために、赤子を連れて行ったのではないか、と考えています。

わたし自身親の立場なのでもう書いてて恐ろしい話ですが、たぶんサンの場合は、そうなのだろうと思うんです。

シシ神の森って、「ちょっとお散歩♪」なんていって赤ん坊を連れて行くような、のどかな場所ではないですよね。

イメージ画像▼

つまり、少なくとも行楽ではなさそう。

「引っ越しか何かで、仕方なく赤子を連れていく必要があった」可能性ですが、これもないでしょう。

アシタカが甲六たちを引き連れてシシ神の森を抜けようとしたときの、甲六のセリフが根拠です。▼

「お願げえです、戻りやしょう。向こう岸なら道がありやすこの森を抜けるなんて無茶だ!」

甲六のセリフからも、シシ神の森がいかに危険な場所であるか念押しされているのです。

しかも、向こう岸なら迂回ルートがあるとのこと。

「引っ越しか何かで仕方なく」、しかも「赤子を連れて」通るなら、迂回する道を選ぶはずです。

じゃあ、「身代わりとして使うため」説はどうでしょう?

ここでちょっと話が逸れるのですが、アシタカが最初にシシ神の森にやってきて、サンやモロたちと出会ったときを思い出してください。

おさらいすると、こんなシーンでした。▼

アシタカはジコ坊の助言を得て、シシ神の森に辿り着きます。

森を流れる川で、タタラ場の甲六たちを助けたアシタカは、向こう岸にモロたちを発見。

モロはエボシに撃たれ傷を負っていましたが、すぐにアシタカの存在に気がつきます。

しかしモロは、アシタカを威嚇し睨みつけただけで、何もせず、その場を立ち去りました。

このとき、アシタカは「わが名がアシタカ!」と名乗って姿を見せているにも関わらず、モロはあっさりと見逃しているのです。

サンや、モロの子2匹に襲わせることさえ、しませんでした。

このことからモロは、人間なら問答無用に襲いかかるわけではないことが分かります。

アシタカのように、森にとって無害だと判断すれば、見逃すこともありうるのです。

ここでサンの親の話に戻りますが、モロは親について「森を侵した人間」と表現しているので、モロにとっては「敵」「襲う対象」になったはずです。

つまりサンの親は、森を侵したことで、モロに襲われそうになった仮定が成り立ちます。

「森を侵す」行為を具体的にあげるとするなら、伐採や神殺しでしょうか。

つまり、親は、

  • 伐採や神殺しを目的として森に入り、
  • 古い神に襲われることが予想できていた

ということに。

そこにわざわざ赤子を連れる理由は何か。

「古い神に襲われたときのため、最初から身代わりにするつもりだった」説に、信ぴょう性が増すように思うのです。

サンの親は、タタラ場以外から来た人間?

後述する「母親はエボシなのか?」の話にもつながってきますが、サンを捨てた親は、タタラ場以外から来た人間だと、わたしは思っています。

身内に対してあれだけ情の深いエボシが、赤子を身代わりに使うとは思えないからです。

タタラ場とは無関係の人間だった、と考える方が自然でしょう。

また、「森の怒りを鎮めるための生贄」説もネット上で見かけますが、わたしは違うかなと考えています。

もし慣習として生贄を捧げ続けていたなら、モロは、サンの他にも、何人も人間の子供を育てているはずです。

またエボシは近代的な考えをもつ女性で、「自然/神々の怒り」や「タタリ神の呪い」さえ、あまり信じず現実的にみていたところが見受けられます。「生贄をささげれば神々の怒りは静まる」と考えるような女性ではないでしょう。

長くなりましたが、「サンは、なぜ捨てられたのか」の個人的な考察をまとめると、こんな感じ。▼

サンが捨てられた理由(ひとつの解釈)

  • タタラ場以外からやってきた、伐採か神殺しを目的としていた人間によって、
  • 最初から身代わりにするために、シシ神の森へ連れていかれた赤子だったから

モロが「あの娘の不幸が癒せるのか!?」といっていたこととも、合致するのではないでしょうか。

サンは、なぜ山犬に育てられた?「もののけ姫」になった理由

サンは親から捨てられたのち、山犬である「モロの君(きみ)」によって育てられ、「もののけ姫」と呼ばれるようになりました。

ここからは、その理由について考えてみます。

これも結論から先にお話しますが、サンが山犬に育てられた理由・「もののけ姫」になった理由は、個人的にこのように考えています。▼

  • モロが捨てられた赤子を哀れに思い、慈悲心から、わが子として引き取ったから。
  • 山犬一族として戦ううちに、人間たちから恐れられるようになったから。

サンは、なぜ山犬に育てられたのか?「もののけ姫」となった理由

サンが捨てられたのは、身代わりとして捨てられてしまったためでした。

しかし、なぜモロは、投げて寄越された人間の赤子を、わが子として育てたのでしょう?

ネット上にはいろいろな考察がありますが、わたしは、モロの慈悲心。捨てられたサンを哀れに思ったから。が一番近いと思っています。

モロは、『もののけ姫』作中で終始人間たちと対立している、シシ神の森に住む古い犬神です。人間にひどく憎しみを持っていたことも印象的でしたね。

人間の赤ん坊なんて、さっさと喰ってしまってもよさそうなものなのに、モロは赤ん坊を引き取り、山犬一族の娘として育て上げています。

モロは、森を侵略しようとする人間には激しく敵意を抱いていましたが、そうでない人間や身内に対しては理性的で、深い情を持って接していました。▼

  • 無害のうちは、アシタカを襲わなかった
  • サンに敵意を向けてくる猪神たちに「私の娘だ」とはっきり告げた
  • 乙事主の無謀な戦略を止めようとした
  • エボシらとの戦の最中、乙事主の目になりに行く(=戦死するかもしれない)と言うサンの意思を認めた上で、「アシタカと生きる道もある」と提案した
  • 実の子たちに、タタリ神(乙事主)に挑ませなかった
  • 瀕死にも関わらず、タタリ神(乙事主)に立ち向かい、サンを救った
  • サンを救うため、アシタカに託した

執念深く人間たちを襲う一方で、母親や一族の長としての情の深さは、モロの大きな魅力のひとつ。

そんなモロであれば、親から投げ捨てられた、罪のない赤子を哀れに思ったとしても不思議ではありません。

山犬に育てられたサンは、モロたちの価値観や信念に触れたり、森側の視点から人間たちの行動を見たりすることで、次第に人間たちへの憎しみを募らせていったのでしょう。

「人間でも山犬でもない自分」を作った人間たちへの、怒りの感情という側面もあったかもしれません。

やがて作中でのように人間たちと戦うようになると、「人間のくせに、山犬として襲ってくる不気味な存在」として恐れられるようになり、「もののけ姫」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

ちなみに、モロがサンを育てた動機について、よく言われる他の考察はこんな感じ。

モロがサンを育てた理由の考察一例

  • モロは、山犬として育てた人間の子を人間と戦わせることが、人間たちへの復讐の一端となると考えた?
  • モロは、人間の子に森の大切さを教えることで、将来的に森を守ろうとした?

これらの説も否定するわけじゃありませんけど、個人的には「哀れに思った」が一番しっくりきています。

宮崎駿監督のインタビューによると、「モロはサンに『お前は(人間だから)醜い』と面と向かって言っているのではないか」のだそう。

そんなモロが、回りくどい方法で人間に復讐しようとしたり、森を守ろうとするとはあまり考えられないかなと思うからです。

サンがアシタカに「そなたは美しい」と言われて狼狽えるシーンが有名ですが、あれも、サンが「山犬が最も美しく、人間が最も醜い(=人間である自分は醜い)」という価値観を持っていたことが理由だと考えます。

サンが山犬に育てられた・「もののけ姫」となった理由(ひとつの解釈)

  • モロが、捨てられた赤子を哀れに思ったから。
  • サンが、モロたちの価値観に感化され戦ううちに、人間たちから恐れられるようになったから。

モロは、サンを「人間として」育てた?

モロは、サンを山犬ではなく、人間として育てたのではないか?という考察を見たことがあるでしょうか?

わたしもこの説については賛成派なのですが、その根拠は、下記のサンの特徴からです。▼

  • 二足で歩いたり、駆けたりしている
  • 人間の言葉を話している
  • お面や入れ墨、ゴテゴテした装飾品など、山犬らしからぬ出で立ち
  • 干した肉を食糧としている(アシタカに口移しで食べさせたシーンから)
  • 裁縫ができる(アシタカの破れた服や頭巾をつくろっている)

わたしは、モロがこのように、サンを人間として育てた理由を次のように考えています。▼

サンが、人間の世界でも生きていけるようにという、モロの親心

モロは、作中の言動から、かなり激しく人間たちを憎んでいました。

タタラ場・頭領のエボシに対しては特にその感情が強く、自身が首だけになっても喰らいついています。事切れていたはずのモロが、首だけでエボシの腕を食いちぎったシーンは、壮絶でしたよね。

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それ程までに人間を憎んでいるにも関わらず、モロがサンを「人間として」育てたことは、上記のサンの特徴をみても明らかです。

もちろん山犬一族としての誇りや信念なんかも教えながら育てたのでしょうが、服を着て二本足で歩き、道具を駆使するサンの姿は、まさに人間そのもの

服やお面や槍も、おそらくはサンが自分で作った物でしょう。拾い物や戦利品とも考えられますが、エボシたちや浅野侍たちの持ち物とは、デザインがまったく違うのです。

捨てられたときには赤ん坊だったわけですから、あとから方法を学んだということ。

山犬になりたいサンが自発的に人間らしく振舞うとも考えにくく、とすると、これもモロの指示と考えられます。

なぜ、わざわざ手間をかけてまで、モロはサンを人間として育てたのか。

それは、成長したサンが人間の世界でも生きていけるようにという、モロの親心ではないでしょうか?

子供の頃のわたしは、「ビジュアル的にそっちの方が可愛いからでしょ」と考えていましたが、浅はかでしたね(笑)「身体的にどうしようもなく、仕方なしに」というのもあるでしょうが、きっと本質ではありません。

モロが親心から、サンを人間らしく育てた根拠は、作中に印象的に散りばめられている、モロのサンへの優しさ

とくに、「乙事主さまの目になりに行きます」と言ったサンへかけた言葉が、一番の注目ポイントだと思います。

「お前には、あの若者と生きる道もあるのだが……」

山犬として戦うサンの意志を尊重しつつも、アシタカと共に生き延びる道も提案しているのです。わたしも同じ母親として、尊敬したい姿勢です!

一瞬逸れましたが、このことからも、モロはサンを、然るべき時がきたら本来あるべき人間の世界に返そうと考えていたことが伺えるように思います。

モロが、サンを人間として育てた理由(ひとつの解釈)

サンが人間として人間の世界でも生きていけるようにという、モロの親心

サンの母親=エボシ? 噂を否定する根拠3つ

さて。母親であるモロに、厳しくも優しく、大きな愛情を注がれ成長したサン。

しかし、あくまでモロは育ての親であり、実の親ではありません。人間である以上、サンには元々「人間の」親がいたはずですよね。実の親については、最初の方でも少し触れました。

とすれば次に気になるのは、サンの実親は誰なのか/作中に登場するのか

あなたもご存知かもしれませんが、『もののけ姫』に関する噂に「サンの実の母親は、エボシではないか」という説があります。

一部ファンの間では、すでに定着しつつある都市伝説のひとつですが、わたしは(ごめんなさいね)、否定的にとらえています。

サンの母親=エボシ説は、無理があるのでは……?

根拠は3つ。

  • エボシは、サンを始末するつもりだった
  • モロがエボシを憎むのは、母親とは関係なさそう
  • エボシの人物像や価値観から考えて、赤子を身代わりにはしない

順に説明します。

エボシは、サンを始末するつもりだった

作中でサンが、タタラ場を襲撃した一連の場面を思い出してください。

このとき、「エボシにサンを殺すつもりがないように見える」ことが、母親=エボシ説の根拠のひとつのようですが、本当にそうでしょうか?

エボシはむしろ、サンを「山犬として」殺そうとしているように思えるのです。

わたしがそのように思うシーンが4つあるので、時系列順にみてください。▼

「エボシはサンを始末するつもり」①→「もののけ姫も人間に戻ろう」の真意?

サン襲撃の少し前、夜のタタラ場でエボシが、アシタカを「秘密の庭」に連れてきたシーンです。

このとき新しい石火矢の試し撃ちをしたエボシは、アシタカに気になることを言っています。

「古い神がいなくなれば、もののけたちもただの獣になろう。森に光が入り、山犬どもが鎮まればここは豊かな国になる。もののけ姫も人間に戻ろう

このセリフから「エボシはサンを、人間に戻してやろうとしている」ととらえる意見がありますが、別の見方もできます。

わたしはこのセリフは「心は山犬だけど、骸(むくろ)は人間でしかない」と、冷たいことを言っているんじゃないかと解釈しました。

この時点では、たしかにどちらの意味でも通るとは思います。ですがシーンが進むと、どうしても「骸は人間」の方なんじゃないかと思えてならないんです。

「エボシはサンを始末するつもり」②→復讐を誓う女たちや石火矢衆に、サンを狙わせた

サンがタタラ場を襲撃しにきて騒ぎになると、エボシは、わざと広場の目立つところに出てきて、サンをおびき出そうとします。

「もののけ姫、聞こえるか。私はここにいるぞ」

エボシは自分を囮にして、サンが出てきたところを、石火矢で狙わせていましたよね。

正直、これはもう「エボシはサンを殺すつもりだった説」の決定打だと思うのです。

石火矢の威力は、アシタカが撃たれたときが分かりやすいのではないでしょうか。アシタカは、呪いの力で辛うじて生き延びるものの、傷口と出血量を見れば、石火矢の威力は一目瞭然です。

そんな石火矢を何本も用意し、エボシはサンを狙わせました。

自分で撃って外しているなら、確かに「生かすつもりだった」とも取れますが、エボシが射手に選んだのは、

  • 手練れの石火矢衆、
  • 夫の敵討ちを心に決めた女たち。

当てる可能性のかなり高い人選です。

しかも、石火矢の集中砲火で、破壊された屋根から転がり落ちるサンを指し、エボシはこう言います。

首だけになっても、喰らいつくのが山犬だ

物語の最終局面、エボシは首だけになったモロに腕を食い千切られるからなんとも皮肉ですが、要するにこのセリフは、「サンを人間ではなく、山犬として見ていた」ということです。

さらにエボシの号令で放たれた石火矢のひとつが、サンの面を撃ち砕きます。運よく気絶しただけで済みましたが、少しでも的がずれていたら、サンの命はそこまでだったはず。

そうでなくとも気絶した時点で、サンの敗北は確定です。アシタカの力ずくの制止がなければ、武器を手にしたゴンザらに囲まれ、やはりサンの命はなかったでしょう。

しかもエボシは、ゴンザらが勇んでサンに駆け寄った時も、止める素振りを一切見せませんでした。

「エボシはサンを始末するつもり」③→エボシとサンの一騎打ちのシーン

エボシとサンの一騎打ちの場面。

全力で打ちかかるサンをエボシが軽くいなしていることから、実力は【エボシ>サン】と見られます。が、エボシはすぐにサンを手にかけませんでした。

ネットでは「エボシが、娘であるサンを手にかけるのを躊躇した」との見方があるようですが、これも少し違うと思います。

状況を思い出してみましょう。エボシがサンを手にかけずとも、サンの敗北はほぼ確定しているのです。

  • サンは単騎で攻め込んだため、タタラ場の中に味方がいない
  • サンは周りを囲まれ、逃げ場がない
  • 奥には石火矢衆が何人も控えている
  • タタラ場の者たちの中に、サンを助けようとする者はいない

部外者であるアシタカがどう動くかの懸念はあるにせよ、エボシ優勢のこの状況がひっくり返る可能性は、かなり低いのです。

しかもこの時点でエボシは、アシタカや、タタリ神の呪いの力をあなどっています。▼

  • アシタカを『きれいごとを言う、世間知らずの若者』と笑った(アシタカのセリフ「曇りなきまなこで見定め、決める」のシーンより解釈)
  • タタリ神を『呪う相手さえ見誤る愚かな獣』ととらえている(エボシのセリフ「愚かな猪め。呪うなら私を呪えばいいものを」より解釈)
  • タタラ場で、サンの退却を説得するアシタカを捨て置いた(エボシのセリフ「好きなようにさせておけ」より)
  • タタリ神の呪いについて「わずかな不運」と言った

エボシは、アシタカがどう動こうが「所詮何もできまい」「問題なく、もののけ姫を討てる」と高をくくっていたのでしょう。だからこそ「好きなようにさせておけ」と、歯牙にもかけなかったのです。

少し逸れました。話を戻しますね。

エボシがすぐサンをころさなかった理由ですが、わたしはこう考えています。

エボシが、すぐにサンを手にかけなかった理由の考察

  • 「いつでも討てる」という余裕の表れ
  • タタラ場の者たちの士気を上げる目的

そもそも、サンがタタラ場に単騎での無謀な攻め入りをしてきたのは、エボシたち人間の勢力に、山犬一族が押され気味であるという背景があります。▼

  • ゴンザのセリフ「(山犬一族が)よほど追い詰められたと見えます」より解釈
  • エボシのセリフ「お前が一族の仇を討とうというなら」より考察するに、すでに山犬一族は、数体がエボシらに討たれたのではないか

エボシからすれば、もののけ姫を討てば、また一歩森の制圧に近づけるだけでなく、タタラ場で戦う者たちの士気もあがります。「山犬などいつでも討てる。恐れる必要はない」のだという余裕を見せれば、戦場において命取りとなる「恐れ」を払拭してやれるかもしれません。

エボシは、何よりもタタラ場の者たちを一番に考えていますから、サンをすぐに仕留めなかったことも、タタラ場を守るための策のひとつだったのではないでしょうか。

「エボシはサンを始末するつもり」④→アシタカのセリフ「そなたの中には夜叉がいる」の意味

「エボシがサンを始末するつもりだった」ことについて、アシタカのセリフにも注目です。

「そなたの中には夜叉がいる。この娘の中にもだ」

「夜叉がいる」とはどういう意味でしょう?

手掛かりとなりそうなのは、直後のアシタカのセリフです。

「みんな見ろ!これが身の内に巣食う憎しみと恨みの姿だ。肉を腐らせ、死を呼び寄せる呪いだ。これ以上、憎しみに身をゆだねるな!」

かっこいい!ヒーローって感じでしたよね。

ですがこのことから「夜叉」=「憎しみや恨み」と考えることができます。

また、エボシにもサンにも、この「夜叉」がいる、ということから考察すると、「相手を身内(タタラ場の者/山犬一族の者)の仇だと憎み、同じ目にあわせてやるという狂気」ともとれるかなと思います。

エボシにとってみれば、タタラ場の者たちが、何人も山犬に喰われているのですから、当然と言えば当然ですね。

これら4つのシーン、とくに、②の石火矢のシーンから、

エボシは、サンを「山犬として」始末するつもりだった

ことがいえるでしょう。

長くなりましたが、「サンの母親=エボシ」説を否定する根拠の、一つ目です。

(あと2つの根拠は、これよりは短めです!)

モロがエボシを憎む理由は、母親とは関係なさそう

モロがエボシに向ける憎しみには、ちょっと理解しがたいほど、激しいものがありますよね。

モロがそうまでエボシを憎むわけは、モロは「サンを捨てた人間が、エボシであると知っている」からだ、とする意見があり、「サンの母親=エボシ説」の根拠のひとつとなっています。

ですがそうでなくとも、モロがエボシを憎む理由は十分にあんですよ。▼

  • 身勝手に森を奪おうとする
  • 一族の仇である
  • 火や石火矢、伐採、神殺しなど、度を越えた侵略
  • シシ神の首を狙っている

シシ神の森には、犬神・モロなどの古い神々が共存し、シシ神を守ってきました。その森をエボシたちが、人間の都合で身勝手に侵略し、かつ同胞を数多く葬っています。

これではモロがエボシを憎むのも当然と言えるでしょう。

また、エボシを激しく憎むのは、なにもモロだけではないです。

  • 猩々たち
  • ナゴの守(アシタカを呪った、最初に出てきたタタリ神)
  • 乙事主

モロと立場を同じくする古い神々が、タタラ場のリーダーであるエボシをかなり憎んでいました。

エボシに対する憎しみは、モロだけが持つ特別な感情というより、森全体の総意という感じがするのです。

「敵対する二大勢力の頭領が、娘の因縁から憎み戦いあっている」とは劇的で格好いいですが、モロとエボシの間には当てはまらないでしょう。

「サンの母親=エボシ説」を否定する根拠の2つ目、でした。

モロがエボシを憎むのは、「母親」とは関係なさそう

エボシの人物像や価値観から考えて、赤子を生贄にはしない

この記事の最初の方で、サンが捨てられたことについて考察しました。

  • 伐採や神殺しを目的としていた人間によって、
  • 最初から身代わりにするつもりで、森に連れてこられた赤子だったから

とくに2つ目の「最初から身代わりにするつもり」をエボシの人物像と比べたとき、なんだか違和感を感じませんか?

仮にサンの母親がエボシだとして、エボシはわが身可愛さに、娘を捨てるでしょうか? あのエボシが、モロを恐れて?

作中でのサンは15歳ですから、赤子の時というと14~15年前。それだけエボシも今より若かったのですから、昔と今で人物像が違ってもおかしくはないですが……

宮崎駿監督の言葉から、エボシは昔から度胸のある女性だったようなので、やはり人物像のずれは否めません。▼

悪路王をしずめた立烏帽子という絶世の美女の伝説があるんですが、実は私の山小屋がある村が烏帽子といいまして(笑)。案外、出発点はそのあたりだったりするんです。

海外に売られて、中国人の倭寇の大親分の妻になって、腕を磨いて、あげく男を殺して財宝を奪って、戻ってきた女とか(笑)。

引用:『宮崎駿の折り返し点』

「エボシにとって、サンは憎かった男との間に生まれた子。だから、捨てるのも惜しくなかったのでは?」との考えが母親説の根拠のようですが、エボシはタタラ場で

  • 売られてきた女たち
  • 牛飼い
  • ハンセン病の人々

など、立場の弱い人間に慈悲深く接する人徳者です。

たとえ憎い男との子供だとしても、赤子を捨てるなんて考えられません。

作中、エボシ初登場時に、崖から落ちた甲六たちを見捨てたシーンがありますが、あれも英語版日本語字幕をみてみると「生きている者を守るのが優先だ」というようなことをいっているので、あくまで合理的な判断によるものだと考えるのが妥当でしょう。

また、エボシは近代的な考えをもつ女性で、掟やタタリもあまり気にする性格ではありませんでした。

アシタカが甲六たちを助けてタタラ場へ歓迎された夜、通夜の席で、ひとりの男がアシタカに言ったセリフです。▼

「掟もタタリもへっちゃらな、怖い人よ」

森を侵されたことに怒り狂ったナゴの守や、モロ、さらには、シシ神にさえ石火矢を放つ豪胆さが、それを裏付けます。

前述したものと重複しますが「生贄をささげれば神々の怒りは鎮まる」と考えるようなエボシではありません。

「サンの母親=エボシ」を否定する根拠の3つ目、

サンを捨てた母親と、エボシは同一人物ではない

ことは、ほぼ間違いないでしょう。

以上3つの理由、

  • エボシはサンを始末するつもりだった
  • モロがエボシを憎むわけは、母親とは関係なさそう
  • エボシの人物像や価値観とのズレ

から、

母親=エボシ説のひとつの考え

サンの母親=エボシ説は、ただの都市伝説のひとつで、真実ではない

ことが言えると思います。

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まとめ:サンが捨てられた理由は、モロから逃げる時の身代わりにされたから

まとめ

  • 『もののけ姫』サンは、モロから逃げるときの身代わりとして、捨てられた赤子だった
  • サンが山犬に育てられた理由は、モロが捨てられた赤子を哀れに思い、引き取ったから
  • サンの母親=エボシ説は、ただの都市伝説?

いかがでしたか?

ちょっと熱が入りすぎて、ボリュームが大きくなってしまいました。

ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。

このブログでは、ほかにもジブリに関する考察や、説明などを中心に記事を作成しています。

気になる記事がありましたら、よかったらのぞいてみてください。

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